昭和46年11月15日 朝の御理解
御神訓 一、「やれ痛やという心で有り難し、今みかげという心になれよ。」
金光様の御信心を頂いて、ここんところを分らして頂く、ここんところ分らして頂くために信心の稽古をしとるというても良い。ですからここのところが、分らん、それが身に付いて行かないとするなら、金光様の信心を頂いておる値打ちはないとすら私は言えると思う。やれ痛や、今みかげをという心になれよ、有り難し今みかげをという心になれよ。やれ痛やという。やれ腹が立つと言うても良いでしょうね。けれどもその腹の立つような事柄をよくよく思うてみる。
また日頃頂いておる御教えを頂いてみると、それは有り難い事であることが分かる。痛いとか、痒いとかという事だけではない。それを有り難しと受けられる心。だけではない。今こそみかげ、霊験とかである。もう霊験が現れておるんだと思うたら、愈々それが有り難くなる。理屈の上で神様の信心をしておって、起きてくることは、すべてが神愛。これは、信心がなかっても同じですけども、信心がなからなければ、信心を頂いておらなければおかげであるという、その訳もわかりません。
いわあばここで言われておるところの、成り行きの中にどういうような事が起きて来ても、その成り行きを大事にして行くとか、その事を事ではない、神様の御働きとして、御事柄として頂いて行く。その御事柄として頂くという事が、本当だとまああらゆる角度から、まあ理屈の上で分からせて頂いても、それが実感として有り難いという事にならなければ、値打ちがない。あれはどういうような、本当の意味あいは知りませんけれど。ね、割れ鍋にとじぶたということ。ね、
例えば割れた鍋にとじぶたをするという事は、それはどういう例えか、私が知りませんけれども、ふたをいかにピチッとしておっても、鍋そのものが割れておったんでは、もう、フタをしておるという値打ちはない。フタをしても、まあ、同じだという意味に私は頂いたんですけれども。ね、こう、かげておる鍋にフタをしても同じですよね。だから、そこんところをです、信心を頂いておっても、ここのところが分からなかったら値打ちはないという事です。
ただ自分が拝む事とか、一生懸命すがる事だけの信心であったら、金光様の御信心に値打ちはないです。信心頂いておる値打ちはない。それはやはり腹の立つような事を言われれば、腹が立たんわけではなかろう。ならいわばもうムッとするという事もあろう。または情けないという思いをする事もあろう。悲しい思いをする事もあろう。けれども日頃頂いておる御教えならその御事柄として、今私の前にそういう事が、そういう事態が起きておるとするならです、ね。
腹を立つけれども神様がこの事を通して下さろうとしておるおかげの事を、いわゆる霊験の事を思うたら有り難い。腹は立つけれどもその腹の底には、んならニコッと笑いたいようなものがある。叩かれれば痛い。痛いけれども、やはり有り難いという事になる。だから、痛いということを言うてはならんという事ではない。痛いけれども有り難いという事になるのじゃないでしょうかね。いやまたそれが私は出来なければです、金光様の御信心を頂いておる値打ちはないと思うです。
分からせて頂けば頂くほど、神様のお働きというものには、もう一寸もの間違いもなく、ただ氏子おかげを受けてくれよという働きだけしかない。いわゆる神愛だけしかないという。それをこの事は有り難いけれども、この事は有り難くないという事はないないのだと。言うならもう分からせてもらうという事、悟らせてもらうと言う事。そこから私は本当の金光様の御信心が、の有り難さが分かって来る。もちろんその分かり方というものは、いよいよ深く、広く実感として分かって来る。
理屈の上ではわかっておっても、なかなか、こちらの心の状態というものがお粗末である時には、なかなかそれを、即有り難く頂けないもんです。そこで信心は油断もすきも出けない。いつも自分の心の中に、ね、神様を取り外さんようにしておかなければならないという事なんです。神様を心の中に生き生きとして頂いておる時には、もうそれこそ不思議なくらいに、それが有り難く何でもない事として受けられたり、いやむしろそれが有り難く、まあこう言う様な事柄を。
こう言う様な心の状態で受けられるということは、何と有り難い事だろうかと言う様にして受けられる。けれども心の調子が、いわゆる割れ鍋と言った様な状態の時にはです、よくよく考えると、本当にお礼を申し上げねばならん事がわかっておるのにも関わらず、腹が立ったり、いわば悲しかったりするのです。そこで私どもが、今申します、油断なく神様の心に( )、頂いて行く心をいつも神様へ向けさせて頂いておる。しかもその修行が成されておらなければならないと言うことです。
昨夜の私、御祈念の時にお話させて頂いた訳ですけれども。ここんところを、もう十日ぐらい夜の御祈念を私は御無礼をしておる。今ごろ、修行生の方達が交代で夜の御祈念は奉仕します。そすと、御理解も当番の先生方がやります。ですから、まあ、私はおらんならおらんでも良い訳です。けどもやはりこれは勤めですから、出て来る事にしておりますけれども。この頃もうお客さん続きですから、もう夕食の時にお神酒を頂きます。そうは頂きませんけども、お客さんがあるとお神酒になる。
お神酒が入ると、もうこの頃体がきつくなって、眠うなってもう辛抱出来ん。だから酒気を帯びてから勤めるということもどうかと思いますし、お御酒頂いたときには御無礼しております。それがこの頃、毎晩のように続いておる。昨夜、久しぶりに夜の御祈念に出らせて頂いたら、ちょうど愛子の当番でありました。御祈念を頂いて、それから何かお話させて頂いておりました。なかなかその掴みどころというのは、良いところをつかんでお話をしようとしておるんですけども、それが本当のお話になって来ない。
私はこっからそのお話を聞きながら、言われておりましたら、俳句をいわゆる句集ですね、えんまと言う句集頂いておりますのに、それを開かせて頂いたら、頂くことが僧もする 冬木の中の連れ小便という句がある。僧等のお坊さんが書かれた。冬木、冬木立という事ですね。冬木立の中で、まあ何人も( )のでしょうか。ね。一人が小便をしてから、皆連れだってと、小便したというような。
昨日は永瀬さんのところの、まあこれはもう恒例のようになってしまいましたが、柿狩りに招待を受けまして、皆でやらせてもらいました。その連れ小便をしておる訳がありますまいけれども、言うならば信心のない者。いや信心のないものじゃない、御信者さん、まあ愛子の場合で言うならば、御信者さんと御一緒。自分はまあ若いとは言え、女とは言え、お道の教師を拝任しておる取次ぎ者である。
その取次ぎ者である例えば先生が、ね、信者と同じような考え方やら、いわゆる行動やらであったというならです。まあハッキリ分かりやすく言うなら、信心頂いておっても、信心のない者と同じだという意味なんです、ね。信心のない者が言うたり、したりするような事を、やっぱり自分も同じような事を言うたりしたりしておるという事では、そこに信心を頂いておる値打ちがないでしょう。ね。
そう言う様な事ではね、決して良いお取次ぎも出けませんし、なら人に感銘を与えるようなお話の出けるはずも、なおさらありません。そういう事で、昨日はそれを申しました事でしたけども。お互いでも、一日を締めくくった時です。まあ、夜の御祈念なら夜に、神様の前に、ね、深々とお礼を申し上げさせてもらう、お詫びを申させてもらう。今日もおかげを頂いてという、そのおかげを頂いてという事がです、一口でも良いからそれが話にまとめられなかったとするなら。
今日の一日はいわば、信心のない者も同じような生活をしておったんだと決めつけられても仕方がないのだ。心を神様に向けておってごらんなさい。もうはあ神様のこのような中にも、こんな働きを頂いて有り難いなあ、勿体無いなあ、その事だけを話したら良いのです。だから夜の御祈念なら夜の御祈念、一日を締めくくった時にです、本当に一口でもその有り難かった事の様子をです、( )言葉に出してお話が出けないくらいな一日であったとするならばです、これはもう信心話だけは、もうこれは別です。
私は大体もう突然ですから。もう皆さんご承知でしょうけれども、何かその形だけの挨拶をしなければならん時には、もう本当に出けないです。もう自分でおかしいぐらいに出来ませんです。例えばなら近頃にはこの頃からの結婚式なら結婚式ごたあっとにただ、普通とおり一遍の挨拶な、普通の人なら出けるんですよね。本どん見ときゃすぐ簡単な挨拶が出けるけれども。私はもう自分ながら不思議なぐらい出けないです。それが一度御理解になると、もうお話が生き生きとして来るです。
これはもう不思議でたまらん自分で。ね。それは自分の心の中にいつも神様を頂いておって、その心で、その挨拶をしなければならないような事柄を、自分の信心でピッと、こう受け止めておりますから。もうそれは体験談です。神様から頂いた事なんです。だからお話が生き生きとして来る。朝晩の御理解は、私は自分で自分のお話をした御理解を頂いて、はあ自分がしよるのじゃないなあと思うです。それは私の心が、神様に向かわせて頂いておるからなのです、出けるのです。
ですからこの信心話ばかりはですね、自分の信心が神様から離れておる時には、もう決して出来るもんじゃないです。普通挨拶なんかはむごうやんなさる。もう普通の話なら良うしなさるけれども、信心話は出けない、出けるもんじゃありません。信心話はもうどんなにお話が下手であっても、突然の人であってもです、自分が体験を頂いておるその有り難さという事はもう不思議に、さらさらと出るもんです。
ですから、取次ぎはさせて頂く先生が、御結界で御用させてもろうてです、御理解の一言も説けないような時には、もう先生自身が、もう大変に狂っておる時、間違っておる時と見て間違いないです。私はだから他の先生方に言うんですけれどね。折角お参りをして来るのだから、今自分が神様を頂いて、有り難いなと思うておる事を、一言でも良いから伝えなさいと。それが伝えられないならば、御結界に座っとっても、神様を外しておる時だと。言うならば、その、例えば有り難いものがないならばです。
信心を頂いておっても、信心を頂いておる値打ちはないのだというくらいな、やはり厳密な心持でです、日々を過ごさせて頂かにゃいけん。皆さんこれだけは一つあの実行してごらんなさい。一日を締めくくって、夜の御祈念にとね、ここが一番良いです。夜の御祈念に、本当にお礼を申させてもろうたり、お詫びをさせてもろうたり。その拝みでもですね、例えばおかげ話は出けなくてもです、本当に心からお詫びが出けると。
今日一日は、本当に相済まん一日だったなあと、心から詫びれたらです、お詫びをしなければおられなかったその事を話したら良いんだと、私は、昨日は申しました。本当に今日は相済まん事だ。それがですね、本当に心からお詫びをする時にはね、そのお詫びの事が言葉に出らないはずはないし、その事を人に話せないはずはないです。なぜって詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから。もう心から詫びておれば許されておるという喜びが、もう話にならんはずはないです。ね。
だから日々をです、心を神様に向けさせて頂いて全ての事を、金光様、金光様として頂いて行くような日常であるならばです、今日有り難かったとか相済まんじゃったとかという事が話に出けないはずはない。自分の心の中に一つ自分に自分に話すように話してみてごらんなさい。それがもし出けんなら今日一日は、ね、金光様の信心を頂いておるけれども、頂いておる値打ちのなかった日だとして、反省して行かなきゃいけません。それこそ、割れ鍋に割れ蓋という事になるのです。
今日の御理解から、やれ痛やという心で有り難し、今みかげをという心になれよと。もし、こういう心の状態が頂けなかったら、信心頂いておる、お道の信心を頂いておる値打ちはない。やれ痛やち、ああ痛いよちゅうような事でもう言うただけじゃたらです。もう、信心頂いとる値打ちはないです。はあ腹が立って、腹が立ってと言うだけであったら、もう値打ちはないです。
日頃その腹の立つような事の起きてくる、その本当にそれを神様の、例えばこれは相対、人間関係の場合であってもです、あの人が言いよるとじゃない、神様が言いござるとじゃと、こう思うたらね、有り難く頂けんはずはないです。冷たい仕打ちを受けたと言うけれども、その人じゃない、神様がそういう仕打ちをなさっておるんだと頂いたら、ね、御事柄として受けられないはずはないです。
それがもし受けられないならば、自分が今間違っておると悟らせてもろうて、それを霊験とこまで高めて頂かせて頂く事が出けるように精進させてもらう為に、お互いが僧もする 冬木の中の 連れ小便といったような事では、いけんのでございます。ね。信心のない者と、信心の薄いのと同じような事を言うたりしたりしておるような事では、信心を頂いておる値打ちはありません。ね。
いやそこに、信心のない者が、信心の薄い者が言うたりしたりしておる事がです、例えば目に余るようなことの場合でありましても、その人の事を心から詫びてあげるような心持がなからなければいけません。ここを、お礼を申し上げねばならんところを、かえって不平不足を言いござる人がそこにあるとするならばです、その人のために、神様にお礼を言うてあげれるような心持があらなければいけません。私はそういう精進が出けておって初めてです、やれ痛や今みかげをという心が頂けると思うのです。ね。
それが、なぜみかげかと言うことは、日頃道理の上で頂くしこ頂いておりますからね、合楽の方達は。ですから自分の心が神様へ向かうてさえおればです、それを有り難しとして受けられる。それを霊験として、もう霊験の始まりだとして受けることが出ける。その前の悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめという御教えがありますね。深い理のある御教えでございますけれどもで、悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめと。
ところが、心配しなければおられない、悪い事を言わなければおられないほどしのです、事柄が、に、そういう中にある場合です、先を楽しめと言うても、お先は真っ暗というような事があります。この御教えとても同じこと。普通から言えばそうであるけれどもです、ね、やれ痛や、今みかげをという事が分からせて頂くようになるとです、それを霊験として頂けれるようになるとです。ね、先はいよいよ明るく。ね、先は必ずおかげが受けられるという実感が心の底から湧いてくるもんです。
ね、例えば、なら心の上にです、本当に、まあ、情けないなあと。しかし情けないなあという、こういう修行をさせて頂くのであるから、先はどげなおかげが受けられるじゃろうかと思う心が生まれて来るです。ね、痛いなあと。こういう痛い思いをさせて下さっておるのであるから、この次にはどういう徳が、力が受けられるだろうかと思うて楽しみなんです、その痛いこと事態を。だから痛い事を痛いけれども、やはり有り難いという事にもなりゃ、先を楽しませて頂く事にもなる訳です。
どうでも信心、お道の信心させて頂くなら、ここんところを身につけて行きたい。これを本当に自分のものにして行きたい。自分のものに、もう愈々なっとるようでありましても、なら、神様を心から外させて頂くとです、その、今日一日の体験談、有り難かったという話すらも出けません。そういう時には、もうこれが何十年信心頂いておっても駄目なんです。神様を外しとれば。
だからもう本当に神様と共にの、言うならば日常生活とでも申しましょうかね。所謂本当の信心生活が出けなければなりません。やれ痛やという心で有り難し、今みかげをという心になれよ、と言う様な御教えが自分のものになるという事がです、金光様の信心を頂いておる値打ちなんです。もしだからそれが出けなかったら、折角金光様の御信心を頂いて口には金光様、金光様と唱えておっても、それは割れ鍋に閉じ蓋をしておるようなもので、さほどの値打ちはないという事になってまいりますですね。
どうぞ。